日常に「楽しい」をもっと⑥ ~人生に必要な「遊び」~
フランスの社会学者であるR・カイヨワの『遊びと人間』(1958年)には、「遊ぶ人の自由、遊ぶ人の活動に許される余裕部分こそ、遊びの本質をなすものであり(中略)、歯車の遊びとかいった表現に見られる遊びという言葉の特異な意味深い用法を説明するのも、やはり、この余裕部分である」とあります。
人間は歯車でも車でもありませんが、生活の中から「余裕」や「ゆとり」がなくなれば、息苦しくなることは想像に難くありません。
けん玉も、遊びの一つとして、「考える余地や、工夫の自由」が保証されるべきですが、実は少し前までの日本では、「正しい」やり方を反復練習で正確に身に付けるという上達方法が主流であり、大会等では自由や工夫はほとんど認められていませんでした。
そんな中、約10年前に動画サイトに投稿された、アメリカ人プレーヤーがけん玉をしているビデオが話題となり、けん玉が一気に世界に広まり始めたのです。
そこには、自分で工夫した高度な技を組み合わせる自由な発想、そして生き生きした表情でけん玉を操り、成功した瞬間には喜びを爆発させる姿がありました。けん玉が本来の「遊び」として表現され、技の高度さや映像の美しさも相まって、人々の心を捉えました。
「1年間対話するより、1時間ともに遊んだ方が、相手の人柄はよくわかる」というプラトンの言葉もあるくらい、遊びは人を現します。遊ぶのが得意な人ほど、ここぞという時の集中力が凄くて、仕事上でもアイデアが光っていて、いくつになっても老けない、という例を思いつく方も多いのではないでしょうか。
遊んでいる間は、夢中になり、現実から頭をリセットできる時間でもあります。大人がもっと、自分が楽しいと思える時間や遊びに、時間やお金を使う世の中になっていくことが、社会に「余裕」や「ゆとり」が生み出される土壌になるのかなと、思っています。
(グローバルけん玉ネットワーク代表 窪田保)
2019年12月26日 「市民タイムス」掲載